2026年05月01日

記事「一在校生がみた早稲田中学と太平洋戦争」

45回生清水一三雄氏の体験から

母校社会科教諭 青木健史

はじめに

 二〇二三年一二月一三日、筆者は本校四五回生の清水一三雄氏にインタビューを実施した。一三雄氏は一九二四年九月に東京で生まれ、インタビュー時九九歳であった。ご子息である豊氏も七七回生で、現在鉄道研究部OB会の幹事を務めておられる。このインタビューが実現したきっかけは、筆者が顧問を務める鉄道研究部と同OB会が共同で鉄道講演会を企画した際、打ち合わせのため豊氏が来校されたことにある。打ち合わせ後の歓談の中で、豊氏の父である一三雄氏が戦時中に本校に在校し、一九四二年四月一八日のドゥーリットル空襲を経験されたという話が出た。

ドゥーリットル空襲は、太平洋戦争開戦から半年と経たない一九四二(昭和一七)年四月一八日、太平洋沖に進出したアメリカ海軍の航空母艦「ホーネット」から、アメリカ陸軍の爆撃機B25が離陸し、日本本土を初空襲したものである。爆撃機は日本各地に飛来したが、その一部隊が早稲田上空にも飛来して焼夷弾を投弾。当時校庭にいた小島茂(四六回生)が直撃弾を受けて亡くなった。本校において空襲による死者が発生した唯一の事件であり、校内には戦後「いのりの碑」が建立され、毎年生徒が献花しているほか、中学一年生の歴史の授業においては、独自教材の『学べる早中の地理歴史』を活用して、平和教育の中で紹介されている。

筆者は日本近代史を専門としていたこともあり、個人的な興味関心から一三雄氏から当時の状況などについて聴き取りができないかとお願いしたところ、快諾いただき、このインタビューが実現したものである。

 本稿では、一三雄氏の体験談を整理するとともに、周辺史料も活用して、一三雄氏がみた本校と太平洋戦争を紹介するものである。

本校入学まで

 一三雄氏が本校に入校するまでの経緯については、その父、清水出美の経歴と密接な関係がある。

 出美は一八八二年一一月一一日高知県に生まれ、一八九七年九月一日(一四歳)、同日付で開校した広島地方幼年学校に一期生として入学した。その後、東京の陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校一五期を一九〇三年一一月三〇日に卒業、日露戦争開戦直後の一九〇四年二月二一日付で陸軍砲兵少尉に任官した。日露戦争中は第二軍(司令官:奥保鞏大将)麾下の野戦砲兵第一旅団(旅団長:内山小次郎少将)を構成する野戦砲兵第一三連隊第二大隊第四中隊に所属した。日露戦争中の出美の活躍は、第二軍の従軍記者であった田山花袋のレポートからも伺える。一九〇四年六月一四日に始まった得利寺の戦いにおいて、第四中隊は被害が激しく、今川六三中隊長以下士官が全員戦死・負傷してしまい、少尉であった出美が指揮をとったことが記されている[1]

 日露戦後は一九〇八年に陸軍砲工学校普通科から高等科学生に進み、一九一四年、大尉のとき野戦砲兵第二三連隊中隊長から東京砲兵工廠員に転じた。その後は砲工学校教官などを兼任しつつ東京工廠に勤め、陸軍技術本部員、台湾軍麾下の馬公砲兵大隊長を経て一九二九年八月一日付で大佐に任官し、一九三一年八月二九日に陸軍造兵廠東京工廠砲具製造所長に着任した。

 一三雄氏が誕生したのは一九二四年で、父の東京工廠勤務によって早稲田で暮らすこととなった。幼少期の記憶について、戸山が原にあった陸軍の射撃演習場の土塁で、薬莢などを拾ったことを思い出として語っている。

 陸軍造兵廠は一九二三年四月に東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠の合併によって成立したものであったが[2]、同年九月一日の関東大震災によって被害を受け、小倉兵器製造所への移転・集約が検討されていた。用地に所在する歩兵第一四連隊の移転や用地買収などの調整に時間がかかり、一九三三年、新たに砲具製造所などを増設した小倉工廠が完成した。東京工廠砲具製造所長であった出美はこの年の一一月一日付で小倉工廠砲具製造所長として小倉に転任している。

 ところが翌年夏、出美は関東軍から満州に設立予定の奉天造兵所の取締役に抜擢されることとなったのである。

奉天造兵所は一九一九年に張作霖が設立した奉天軍機械廠が起源で、一九二一年に張がこれを拡張して東三省兵工廠となり、一九三一年九月一八日の満州事変では同日中に第二師団によって接収された[3]。事変後には工廠設備を利用して武器弾薬の製造・修理・販売などを行うべく、陸軍の許可を得て三井物産と大倉組が出資して株式会社奉天造兵所が設立された。社長には砲兵出身の村瀬文雄が就任した。

この取締役に陸軍出身者一名を出すことになり、関東軍では村瀬と相談の上で出美を推薦することで決定、関東軍司令官の承諾を得た上で一九三四年七月に東京の陸軍省に決定を仰いだのであった[4]。小磯国昭関東軍参謀長からの電報では、出美は同年八月に少将に進級するはずであるから、進級の上で退職させ、取締役としたいとのことであった。これにつき八月七日付で橋本虎之助陸軍次官から小磯に対し、陸軍省と本人ともに異存が無い旨を返電している[5]

出美は八月一日付で待命となり、三〇日付で予備役に編入され、奉天に向かうこととなった。その後、奉天造兵所の理事になったようである[6]

このため、当時東京市淀橋区戸塚第二尋常小学校に在学中だった一三雄氏は、一〇歳で奉天に渡り、その後奉天第二中学校に進学することとなった。

一三雄氏の証言では、その数年後に父の出美が「役員を満期」となり、帰国することになった[7]ため、再度転校することになった。その際、奉天二第二中学の校長であった堀越喜博[8]が早稲田中学の九回生だったことから、堀越のつてを頼りに、一三雄氏は弟の清氏とともに無試験で早稲田中学に編入することになったという[9]

帰国した一三雄氏は早稲田中学四四期に編入した。肺結核のため、一九四一年四月から翌四二年三月まで休学を余儀なくされたため一年留年し、四五期に繰り下がりとなった。早稲田中学では、出来たばかりの射撃部に所属していたという。

当該期の学校生活については、正課として軍事教練が行われていた。大佐ぐらいの配属将校が一名おり、行進や塀登りなどの教練を週一回実施していたようである。

ドゥーリットル空襲と一三雄氏

四月一八日、ドーリットル中佐の搭乗する一番機(40-2344)は攻撃隊長として午前七時二〇分に離陸し、二番機フーバー中尉機とともに日本本土に向かい、一二時頃に本土に到達した。両機は水戸の上空を回って北方から東京方面に入るコースを取り、途中フーバー機はドゥーリットル機を追い越して尾久方面を空襲した。日本の防空監視所の多くは味方機と誤認したため地上では防空体制を取るのが遅れたといわれている。

 早稲田方面に侵入したのはドゥーリットル中佐が搭乗する一番機で、後楽園にある陸軍造兵廠東京工場を目標としていた。高度を一二〇〇フィート(三六〇メートル)に上げて進路を南西に変更し、一二時三〇分に木造建築が並ぶ場所に焼夷弾を投下した。これらは当初目標であった陸軍造兵廠東京工廠よりも西に三キロ程ずれてしまっていた。早稲田方面に投下された焼夷弾は四発で、被害は重軽傷者 一九名、早稲田キネマや岡崎病院など全半焼家屋四二棟。人的被害としては、本校生徒であった小島茂(四六回生)と通行人が直撃を受けて死亡した。

 ドゥーリットル空襲時、一三雄氏は一七歳で、中学五年生であった。四月一八日は土曜日で、三年生までは午前中で授業終わり、四、五年生は午後まで授業があった。

 一三雄氏によると、当時は午前と午後の授業の間に校庭に整列することになっていたため、生徒たちは校庭に出ていたという。ところがその日は、臨時の教員会議が開かれたために通常整列する時間になっても生徒たちは整列せず、校庭にバラバラに散らばっていた[10]。一三雄氏は、西側にあった物理化学教室の前の校庭中央付近にいた。

 そこへ、大隈講堂の方向(北西方面)から銀色の航空機が低空で侵入してきた[11]。一三雄氏によると、当時の校地周辺には高い建物が無く、校庭越しに大隈講堂の時計塔を見ることができ、侵入機を一目見て、アメリカ軍のB25爆撃機だとわかったという。さらに侵入機は一機のみであったため、当初「鹵獲機のデモンストレーションだと思った」ようである。

氏がこう判断した理由として、自身が当時「飛行機少年」で、普段から本などで爆撃機などを目にしていたと説明している。また侵入機を「鹵獲機」と判断した理由としては、当時軍などが多摩川の河川敷などで敵の鹵獲機を飛ばすなどのデモンストレーションを行っているのを見に行ったことがあったためと回想している。

 大隈講堂方面から侵入してきたB25は次いで焼夷弾を投弾した。氏は「ビラが撒かれた」と感じたが、次の瞬間には校舎や校庭に焼夷弾が落下し、激しく火花を散らし始めた[12]

当時の「焼夷弾痕分布図」を見ると、落下した焼夷弾は多くが南側の本館と興風館付近に集中し、一三雄氏がいた物理化学教室前はほとんど落下しなかったことが確認できる。

四六回生の小島茂は、空襲時に焼夷弾が集中した本館付近におり、肩に直撃弾を受けて犠牲になった[13]。本来この時間帯に予定されていた昼の整列は本館に向かって南向きで整列が行われるはずであり、一三雄氏は、「いつもの通りに整列していればもっと犠牲が出た」はずだと証言している[14]

なお焼夷弾の様子について一三雄氏は、激しく火花が出ただけで、岩井謙二『戦ふ教室』に表現されるように「校庭が火の海」のようになることはなかったと述べている。燃焼の様子から見て、この時に用いられた焼夷弾は後年の東京大空襲のような油脂を用いたものではなく、アルミ合金による発火ではなかったかと証言している。

実際に爆撃部隊が搭載していた爆弾は五〇〇ポンド (二二五キロ)爆弾三発と、エレクトロン焼夷弾であった。焼夷弾は 一発につき約二キロの焼夷弾子一二八発が束ねられており、空中で結束ベルトが外れて弾子が飛散する構造となっていた。この弾子は着弾すると直径三〇センチの炎が六〇秒ほど噴出するものであり、一三雄氏が目撃した様子の通りであることがわかる[15]

空襲後、一三雄氏は校庭北西側にあった「銃器庫」に向かっている[16]。自身が射撃部で使用していた銃で実弾を発砲するため、「B25に向かって撃ってやろうと思った」のだったが、「銃を取って戻ったときには既に〔飛行機は〕行ってしまった後だった」と述べている。

なお空襲時、校庭には当時四七回生であった弟の清氏もおり、証言を残している[17]。清氏は、「昭和一七年四月一八日一二時一五分頃昼休みで遊んでいる私たちの上空から突然見られない飛行機が現れ」たとし、最初はビラが撒かれたと思ったほど、白くキラキラ光るものが、いっせいに落ちてきました。すぐ前の地面に長さ三、四〇センチばかりの銀色の筒が突き刺さり、火を噴きはじめました。校庭のあちこちにも同じように突き刺ささっているのが見えました」と証言している。さらに、「空襲警報も鳴っていませんでしたので、無茶な練習をするもんだと感じましたところ、級友の一人に焼夷弾が右腕に直撃、即死という悲劇になりました。当日は土曜日でしたので校庭にいたのは旧制中学4、5年生でしたのでこれが平日でしたらもっと多くの犠牲者が出たでしょう」と述べている。

清氏は、「その後、空襲警報が鳴り、同じく校庭にいた兄の一三雄氏と「お互いの無事を確認」し、「それから帰り支度をして柔道場の興風館に集まり、警報が解除してから帰宅」したという。

一三雄氏のその後

 一三雄氏は早稲田中学卒業後、一九四三年に東京物理学校へ進学した。当時は無試験で入学したが、入営などで最終的に一学年四〇〇名程度が残るのみであったという。

 入学後、航空機に興味を持っていた一三雄氏は、学生航空隊(戦前戦後の学生航空連盟)整備部に加盟していた「東京物理学校報国団航空班」に入った[18]。また、一九四四年の空襲激化以降は、警報発令の際に学校報国隊防空補助員としての任に着いたほか、四谷警察署管内の第四分団として、四谷第四国民学校の警防班に所属する事になっていたという。

前述の航空班では、軍用機整備の特訓を受け、横浜・磯子の大日本航空の水上機の基地で九七式大艇や二式大艇などの海軍飛行艇のエンジン・プロペラ・自動操縦装置などの整備に従事した。この際には、整備が終わった飛行艇の試験のため、房総半島から銚子の方へ二時間ほど飛行することもあったという。大日本航空では物理学校生徒は正規の社員待遇で給与が支給され、勤労動員などより待遇がよかったといい、また調布飛行場では、飛来するB29爆撃機に体当たりして撃墜することを任とした震天制空隊の整備や、立川飛行場で陸軍の戦闘機「飛燕」の整備にもあたった。

 勤労動員では理系生徒の特権として、動員先の選択が可能であった。一三雄氏は東京航空計器を選んだ。一三雄氏は同社の社員扱いという待遇で、給料の支給もあり、同じように勤労動員された高等女学校生を配下に置いて職場の長として労働に励んだ。

 一九四五年八月一五日の終戦は神楽坂の物理学校で迎えた。東京物理学校の施設の一部は、本土決戦に備えて東部第二一六一部隊が使用していた[19]。度重なる空襲で校舎周辺は焼け野原となり、五月二五日の空襲では講堂などに焼夷弾が落下した[20]

終戦の日について、講堂でラジオ放送を聞いたこと、電波が悪く聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたことは察しがついたと証言している。一三雄氏は日本が戦争に負けることは必然だと考えていたようである。

おわりに

 以上、一三雄氏の経験した太平洋戦争について、その父出美の経歴とともに詳述してきた。一三雄氏は、父である出美が陸軍将校であったこともあり、満州などでの生活を体験した上で早稲田中学に入学した。また、戦争当時から航空機に興味を持っていたため、早稲田上空に飛来したB25を米軍機と認識し、逆に「デモンストレーションではないか」と考察するなど、当時の生徒の中では珍しい反応を示したことも特筆される。

 また、ドゥーリットル空襲時の状況について、本来行われるはずだった昼の整列が、教員会議が長引いたために行われておらず、「いつもの通りに整列していればもっと犠牲が出た」という証言が得られたのは重要である。空襲時の生徒分布図が伝わっているが、昼の時間帯になぜあれほどの数の生徒が校庭に散在していたのかについては不明であったからである。

 空襲では小島茂さんが亡くなったが、状況次第ではどの生徒が死傷してもおかしくない状況であったことが窺える。望むと望まざるとに関わらず、戦争が教育の場である学校に影響し、守り育てられるべき生徒が危険に晒されてしまう状況があったことに、今一度思いをはせるべきであろう。

 戦後八〇年となり、戦争の記憶は過去のものとなりつつある。歴史の教員として、こうした本校の先輩方の経験された体験を、途切れさせることなく次の世代に伝えていくことの大切さを、改めて考えさせられた今回の調査であった。改めて、今回の機会をいただいた一三雄氏と、豊氏に感謝を申し上げたい。


[1]  田山花袋「第二軍観戦私記 第一信」『日露戦争実記』第二三編(『文学研究パンフレット 田山花袋とその周辺』第一四号(二〇〇二年)二三頁)。

[2] 「陸軍造兵廠令」(大正一二年三月三〇日勅令第八三号)による。

[3] 以下の奉天造兵所説明は名古屋貢「東三省兵工廠から奉天造兵所までの変遷」『銃砲史研究』三七三号(日本銃砲史学会、二〇一二年)に拠る。

[4] 防衛省防衛研究所戦史研究センター蔵「清水出美を奉天造兵所取締役とするの件」『陸満密綴 第17号 自昭和九年九月一三日 至昭和九年一〇月一一日』(アジア歴史資料センターレファレンスコード(以下、Ref.で表記)C01003020600)。

[5] 同右。工廠の稼働は軌道に乗ったものの、陸軍としては工廠の抜本的改造と、日満合弁化を企図し、特殊会社である株式会社奉天造兵所を設立することが決定した。一九三六年七月に設立委員が任命されて始動に向けた検討が進められ、社長には旧奉天造兵所社長村瀬文雄後備役少将が就くこととなった。新たな奉天造兵所も当初から三井物産と大倉組の影響下で運営が進められることとなり、常務理事二名のうち一名を三井物産と大倉組から交互に選出し、もう一名は陸軍関係者から出すこと、定員四名の平理事となる現職の取締役には三井物産一名、大倉組一名、満洲側から日系人一名が選出されることとなった。

一九三六年八月一〇日に満州国政府が「株式会社奉天造兵所法」を施行し、同所は特殊が会社として再出発することとなった。

[6] 交詢社編『日本紳士録 四三版』(交詢社、一九三九年)三〇七頁。

[7] 同時代の史料によると、出美は一九三九年頃から大同製鋼の顧問に就任しているようである(中外産業調査会編『人的事業体系 鉄鋼・造船編』(中外産業調査会、一九四三年)一五九頁。

[8] 堀越は一八八九年生まれ、東京帝国大学国文科を卒業後、陸軍教授、鞍山中学校長などを経て、一九三六年の奉天二中開設当初から校長であった(満蒙資料協会編『満洲紳士録 第二版』(満蒙資料協会、一九四〇年)三七三頁)。なお一九四二年の八月には同校を依願退職している(『官報』一九四二年八月六日)。

[9] なお、一九三九年九月二八日付の文部省通達により、中学校入試については筆記試験を廃止し、内申書・口頭試問・体力検査の総合成績で判定するよう制度改正が行われている。

[10] 岩城謙二『戦ふ教室』(時代社、一九四三年)ではその日、「石村先生が亡くなった」ことから、臨時教職員会議が開かれていたことが確認できる。「石村先生」は、三八回と四三回で学年主任を務めた英語科の石村一郎教諭であり、前夜脳溢血で急逝したため、葬儀についての会議が開かれた(早稲田中・高等学校校史編纂委員会編『早稲田中学校・高等学校百年の軌跡』(早稲田中学校・高等学校、一九九五年)三七五頁)。

[11] B25が大隈講堂方面から侵入したのは朝倉篤郎氏(一九二八年生まれ)も「早稲田大学の大隈講堂の上を黒色の双発機B25が飛んでいった」と証言を残している(二〇二〇年八月三一日付、新聞『農民』「私の戦争体験 東京都小金井市在住の「農民」読者 朝倉篤郎さん(92)」)。

[12] 焼夷弾の落下をビラと認識した例としては、堀内康男氏(四六回)の回想にもみられる。堀内氏によれば、「ビラみたいなものを撒いたんですよ。焼夷弾だったと思うんですがね。すごい音で、これはもう直感的に何かくるなって雰囲気があったから、自動的にみんな伏せた」と証言している。堀内氏は受験に向けた補習授業を受けるために登校しており、空襲時は昼休みで小島ら仲間とともに休憩していた。焼夷弾が降り注ぎ、堀内氏はとっさに伏せたが、五、六人先にいた「彼の左肩に直撃弾が刺さ」ったと証言している(Yahoo! Japan 「未来に残す戦争の記憶」より「同級生が犠牲に=堀内康男さん」https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/1/ 二〇二四年一月三〇日閲覧。インタビューは二〇一六年六月のもの)。当時校庭の南半分はアスファルト舗装で、ここに焼夷弾が突き刺さって火を噴いたものと考えられる。

[13] 小島茂と同じ四年D組だった尾山令仁は「ものすごいものが私たちのまわりに落ちてきた。約六〇発の焼夷弾である。すでに何度も訓練されていたとおり、私たちはただちにものかげに行って伏せた。校庭は焼夷弾の火と煙でもうもうとしている。まさに一瞬の出来事であった。私たちはただちに武道場に避難した。学校のサイレンがけたたましく空襲を知らせた。それからややしばらくして、東京市の空襲警報が鳴りひびいた。それはB25による日本本土最初の爆撃だったのである。あまりの低空飛行に、私たちも避難しながら、はっきりと機体に印されたアメリカのマークを見た。やがて私たちに悲しむべき知らせが伝えられた。クラスメートの小島茂君が直撃弾二発を受けて即死したのであった。そしてふしぎなことに、あの六〇発の焼夷弾は、彼以外の誰にも当たらなかった。焼夷弾が落ちてくる直前まで、私は彼と話していた。そしてそのちょっとあとで、私は飛行機を見るために場所を移動したのだった。だから、彼が直撃弾を受けたことは、あとで聞くまで、全然知らなかったのである。私たちのクラス四年D組には、ついに空席がひとつできてしまった。」と記録している(「親友の爆死にあって」『東京大空襲・戦災誌』編集委員会編『東京大空襲・戦災誌. 第二巻 (都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで)』(東京空襲を記録する会、一九七三年)三二頁)。

[14] 中学四年(四六回)学年主任鈴木拾五郎はその報告書の「一、空襲感知後採リタル応急処置並行動」において、「会議室を飛び出して廊下の硝子窓越しに校庭一面に火柱の立っているのを見て空襲だと感じた」と記している。この「会議室」は前掲の石村教諭死去に伴う臨時の教職員会議で、「火柱」はテルミット焼夷弾による火花であったことがわかる。

[15] 田村正彦「「尾久初空襲(ドーリットル空襲)」 ―史実とそれを語り継ぐ運動 The First Attack by B-25―」『明治大学教育学会紀要4』(二〇一二年)。

[16] 四六回生の花咲久信氏はこの「銃器庫」について、「早稲田実業よりの所に兵器庫があり、チエッコ銃や騎兵銃まであつて、上等兵の階級章をつけた兵士の助教が、いつも三八銃の手入をしている風景」を印象に留めている(「カーキ色の中学生活の中に」堀切善次郎編『早稲田中学校創立六十周年記念録』(早稲田高等学校、一九五五年)一七〇頁)。

[17] ブログ「from chuhei」二〇一二年五月一一日付の記事(http://esilver.web.fc2.com/e-silver/essei/kushu/kushu.html 二〇二四年一月三〇日閲覧)。ブログの運営者は西宮市シルバー人材センターで清氏とセンター運営に携わった方で、清氏からのメールをきっかけとしてドゥーリットル空襲に関する対談を行ったという。空襲関係の清氏の証言はこのブログに拠った。

[18] 以後の一三雄氏の経歴は、インタビューと、東京理科大学同窓会誌『理窓』(二〇一四年一〇月号)四二頁所収の本人による寄稿に拠った。

[19] 東京理科大学編『東京理科大学百年史』(東京理科大学、一九八一年)一八八頁。

[20] 同右、一八九頁。

(付記)本稿で貴重な証言を残してくださった清水一三雄氏は、二〇二四年一二月三〇日に逝去された。インタビュー後、遅筆のために原稿の完成が遅れてしまったことをお詫びするとともに、謹んで本稿を一三雄氏の神前に捧げる。